楽しいことがあり過ぎる

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健康な体があればいい

2020年9月21日、いまの気持ち

どうせいつか終わる旅を 僕と一緒に歌おう

BUMP OF CHICKENの『HAPPY』という楽曲の一節だ。

BUMPを好きになって以来、誰かの誕生日を迎えるたびにこの曲が頭に浮かぶようになった。BUMPの記念日には、ことさら何度も。

 

9月20日はBUMPのメジャーデビュー記念日だった。
朝起きていつも通りTwitterを見たら、トレンドに『#BUMPメジャーデビュー20周年』の文字を見つけてめちゃくちゃ微妙な気持ちになった。例の報道以降、BUMP OF CHICKENの名前は思わぬ形で注目されている。だから、たとえハッシュタグ自体はポジティブなものだったとしても、今、このタイミングでトレンドにBUMPの4文字が並ぶのは悪手ではないのか、と思ったからだ。とはいえ、それでも何かしらの気持ちでエールを贈りたいというファン心理も十分に理解できるし、そんな方たちの気持ちに違和感を抱く自分自身にも嫌気がした。とにかくあの日以来、気持ちの落とし所はまだまだ見つけられずにいる。わたしの大好きなバンドがこの先どうなるのか、どうするのか、それをどんな心境で待てばいいのか……悩んでは落ち着き、落ち着いていたかと思えばふとしたきっかけで涙がじんわり溢れたりもする。そんな中、彼ら唯一のレギュラーコンテンツであるラジオ番組『ポンツカ』の休止。この休止が公式に告知されなかったことが、ゆらゆらしていたわたしの気持ちにダメ押しパンチを食らわせた。「もしかしたら、わたしが思っている以上に事態は悪い方に向かっている……?」そう思った瞬間に、なんだかいろいろダメになった。とにかく終わらないでほしいという気持ちが溢れた。溢れて、でもだからと言って何かが変わったわけでもない。結局そういうことなのだろう。わたしは彼らのファンだから、あんなことがあったけど、今日だって彼らの曲を設定している目覚ましアラームで朝を迎えた。とにかくもう待つしかない。きっと時間が経つことで見えてくることもある。

とは言えせっかくブログをやっているし、好きなバンドが炎上することなんて滅多に無いから(笑うところです)オタクはオタクらしくお気持ち表明エントリーでも書くことにする。いつも以上に思考の垂れ流しになるでしょう。

 

 

例のニュース記事を読んで最初に思ったことは「まぁ、らしいっちゃらしいな」だった。彼らのことを思うなら記事のPV数に貢献すべきではないだろうけど、好奇心に勝てず隅々まで読んだ。LINEのスクショもめっちゃ見た。ごめんなさい。そして、その後は怒涛の共感性羞恥。当事者でも何でもないのに、もうあらゆる面でなんとまぁ不憫な……と思ってしまった。そしてそれ以上に「ダセェな」と思った。今まで不倫で炎上する有名人を見るたびに「ダセェな」と思ってきたので、その中に自分の大好きなバンドのメンバーが仲間入りしていつもの8倍くらい「ダセェな」って思った。「バカだなぁ」とも思った。「何やってくれても構わないからせめてバレないようにやってくれよ」ってめちゃくちゃ思った。

記事によれば、語られた出来事自体は3〜4年前のことらしかった。3年も前のことを今さら、と相手方を非難する感想もいくつか見つけた。でもわたしにとって3年前ってめちゃくちゃ最近の出来事だと思えたので、その事実が今でもジワジワと心理的ダメージになっている。だって3年前って、わたしめちゃくちゃBUMPのツアーに行ってたときなんですけど。PATHFINDER静岡公演のチャマの誕生日当日だってプレゼントBOXにバースデーカード突っ込んだんですけど。だから何?って話だけど、たとえばオタク友達と「○年前の今日はどこどこのライブ行ってたよ」ってLINEを送り合うようなわたしにとっては、そんな思い出に余計な雑音入れられちゃったなぁ……とか、どうしたって考えてしまう。これから先のポンツカで、チャマがリスナーからの恋愛相談に真摯に答えていても「とはいえなぁ……」とか思っちゃうかもな、という可能性に気付いてしまった(そもそもポンツカが復活するかも不明ですが)。こうやって、今までの思い出とかこれから思い出になるかもしれないことに、余計な雑音が一つ加えられてしまった。もしかしたら、今回の騒動がなかったら実現していたことが立ち消えになってしまっているかもしれない、そんな可能性にも気付いてしまった。そのことが結構キツイ。

 

アーティストが何か問題を起こすたびに『作品』と『作り手』の扱いが話題に挙がる。そういった事象を目にするたびに、作品と作り手は分けて考えてあげるほうが理想だろうけど、多分わたしにはそれは無理だな、と思って生きてきた。これは、所謂、公開中止/販売中止というような社会的な対応の話ではなく、あくまでわたし自身が理想とする心理的な対応の話である。『作品に罪はない』ということは尊重される意見であろうとは思うけど、わたしの中ではそんな風に割り切れないだろうなぁ……と常々思ってきた。そして、いざ、自分がそのような状況になって、やっぱり割り切れないでいる。そして、この割り切れないことこそが『BUMPの望む〈音楽〉の理想形ではない』という事実に正面から向き合うことに繋がるのも結構ツライ。
BUMP OF CHICKENというバンドは常に『楽曲至上主義』というスタンスを貫いてきたバンドだ。だからこそ、本来、彼らにとってBUMP OF CHICKENの4人がフォーカスされることはきっと本意ではない。しかし、わたしはどうだろう。わたしは彼ら4人を含めてBUMP OF CHICKENのファンになった類の人間だ。だから、それらの関係性が如実に表れるような場であるポンツカが大好きだし”彼ら4人だからこそ”という要素についつい食いついてしまう。ここ数年、明らかにBUMP OF CHICKENというバンドが持つバックボーンをフィーチャーしたようなコンテンツが増えてきていても、喜んで享受してきた。なので、今、この状況で思わぬダメージを受けている自分自身に対して後ろめたい気持ちを抱いてしまう。結局、わたしの求めるBUMP OF CHICKENへの想いと、彼ら自身が追求しているBUMP OF CHICKENの理想には、大きな差があるんだよなぁって改めて痛感した。
でも、だからこそ、チャマに対して「ダセェな」と怒りにも近い感情が湧いている。あんなに楽曲至上主義っぽいこと言い続けてきたのにね、と思ってしまう。『リボン』を初めて聴いたとき泣いたって言ってたじゃん、誰よりも藤原基央の作り出す楽曲のファンは他メンバーだったはずじゃん、自分で雑音引き連れてきちゃってるじゃん、と思ってしまう。オタクはね、自分の好きなコンテンツを布教する生き物なんだよ。例えばこの先、わたしが誰かに「BUMPの曲すごくいいんだよ」って教えてあげても、今回の件が引き合いに出されちゃうかもしれない。それってすごく悲しいよ。「でも作詞作曲してるのは藤原基央だから……!」って返せばいいのかよ。違うだろ、4人でBUMP OF CHICKENなんだろう?頼むよ、4人でBUMP OF CHICKENなんだよ。

 

 

BUMP OF CHICKEN、どうなるんだろう。
例えばこの先、ライブ開催が告知されたとする。きっとわたしはめちゃくちゃテンション上がるだろうし、喜んでチケット確保に向けて動き出すだろう。そして、ライブが始まって、ステージ上で演奏するチャマを見て、どう思うだろうか。チャマが嬉しそうにベースを弾く姿が大好きで、そんなチャマの笑顔を見るたびに「あぁ幸せだなぁ……」って何度も涙を流してきたけど、その気持ちはどう変化するだろうか。変化しないだろうか。まったく想像できない。

個人的な希望をいうのであれば、金輪際、今回の件には触れてほしくないのが正直な気持ちだ。謝罪されても、どんな気持ちで聞けばいいのか分からないし。迷惑を掛けられたという意識もない。何も知らない外野に「BUMP大変だね」的なことを言われる面倒臭さはあるけれど。だから、今まで通りのBUMP OF CHICKENでいてほしい。それをどう受け止めるのかは、受け手側の自由だ。


とりあえずわたしは、近々、彼らが主題歌を担当している青春恋愛映画を観に行こうと思う。いちファンによるささやかなる支援の課金だ。どうしてだか、こういった時に「せめてもの罪滅ぼしだ」と謎の使命感に駆られてしまう。あまり興味を持てないであろうジャンルの作品なので足を運ぶつもりはなかったけど事情は変わった。行くぞ、わたしは!純愛映画ドンと来い!!!!

 


今日、『ヒルナンデス!』を見ようとテレビを点けたら、たまたまお昼のワイドショーで例の記事が取り上げられていて思わず電源を切ってしまった。おいおい余計なことしてくれるなよ、と心底イヤになった。そういう雑音に、BUMP OF CHICKENの音楽はこれからしばらく(下手したらこの先ずっと)晒される。結構しんどいね。

 


冒頭で紹介した『HAPPY』では、こうも歌われている。

終わらせる勇気があるなら 続きを選ぶ恐怖にも勝てる

今は、この一節に支えられている。 

 

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