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まるで本物だ!という衝撃_東京都美術館『現代の写実ー映像を超えて』感想

先日、東京都美術館で開催されていた『ゴッホ展 巡りゆく日本の夢』に行ってきた。ゴッホと日本の浮世絵の関係にスポットをあてた展示内容でとても興味深かった。彼は日本に憧れを持ちつつも、一度も来日することなく生涯を終えている。日本に来なかったからこそ、来日経験を持つ友人や渡仏していた日本人づたいに見聞きした知識をもとに自由に『憧れの国 日本像』を抱けたのかもしれないなぁ…なんて思った。もしゴッホが実際に日本に来ることがあったなら芸術の歴史も変わっていたかもしれない、などと色々と想像することができ充実した時間を過ごせた。会期終了ギリギリで混んでいたのだが行って良かったです。

 

ところで多くの美術館ではメインとなる美術展を楽しんだあと、その美術展の半券持参で他の美術展を割引もしくは無料で楽しめたりする。この日もゴッホ展を見終わって同時開催されていた『現代の写実ー映像を超えて』を無料鑑賞したのだが、これがとても素晴らしかった。そして改めてわたし自身がどういった芸術に感動するのか、ということを整理できた気がしたので今日はそれについて書いてみます。

 

まずは、この美術展の概要を。

東京都美術館東京藝術大学などがある「上野」は、多くの芸術家が育ち、輩出してきた長い歴史のある芸術家のメッカです。なかでも「公募展のふるさと」とも言われる東京都美術館は、さまざまな芸術家の発表と成長の場として大きな役割を果してきました。その歴史の継承と未来への発展のために、一定のテーマを決めて、現在公募団体で活躍している現代作家を紹介するシリーズ「上野アーティストプロジェクト」を開催します。第1回のテーマは「現代の写実― 映像を超えて」です。都市の看板や大型スクリーン、そしてテレビやスマホなどを通して写真やビデオの映像情報がめまぐるしく氾濫する現代社会の中で、絵画でしかできない「現代の写実」を真摯に追究する画家たち9人を紹介します。

東京都美術館公式サイトより

 

わたしは高校3年間美術部に所属していた。一般的には美術部って幽霊部員の集まり的なイメージを抱かれているかと思うが、わたしが通っていた高校は芸術系の学科がある高校だったので美術部員の多くも芸大・美大を目指しているようないわゆる『ガチ勢』だった。毎日放課後は石膏像のデッサンをして、2週に1回ペースで全部員のスケッチを並べて顧問の先生に1〜10まで点数をつけてもらう。みんなの前で褒められることもあればクソメソに言われることもあった。石膏像のデッサンというものは基本的に『どれだけ本物のように描くか』に重きを置いている。少なくともわたしが所属している美術部ではデッサンは対象となるモチーフをどれだけ忠実に写しとるか、が最重要ポイントだった。つまり〈まるで写真じゃないか〉と疑われるようなデッサンを目指して日々キャンバスに向かっていたのだ。

美術を本格的に学び始めた場所がそのような環境だったので、わたしには潜在的に『写実的な作品を見たときの衝撃の大きさに感動も比例する』という性質が備わったようだ。というのも今まで多くの美術展に足を運んできたのだが、思い返せば強く印象に残っている作品は写実性の高いものが多い。人間がまるで本物のようにモチーフを2Dで描き出す、という行為に圧倒的な感動を覚える。

 

こんなにも技術が進歩している現代に於いて『写真と見間違えるような写実的な絵を描くこと』というのは人類の技術への挑戦的な要素が多く含まれている気がして、なんだかとてもロマンを感じてしまう。あぁ素敵。

 

たとえば、小林隼人さんという方なんかはテーブルに並んだ果物などをモチーフとした静物画を多く出品していたのだけど、その並んだフルーツのシズル感が凄まじくて〈うひょーーーマジで本物じゃん〉とただただ感動しまくった。本当に感動すると人は語彙力を失ってひたすらウホウホ言ってるゴリラのようになってしまうものだが、小林さんの作品の前ではただただテンション高いゴリラのごとく、作品に近づいたり遠ざかったりしながら〈写真のようだ………〉と圧倒されっぱなしでした。

また、橋下大輔さんの作品はその大きさと画面から伝わる重量感、みたいなものが印象的でとても良かった。あれだけの大きな作品を描くときに、そこに描き出された世界を破綻させることなく完成させることってとても難しいことだと思う。写実性を求めると余計にそのバランスを取ることは難しくなりそうだ。そのバランスが崩れれば、途端に作品全体のリアリティは失われてしまうだろうし…。全体のリアル感を失わないようにバランスを見つつ細部を描き込んでいく、という途方もない作業量に〈マジすげぇ…〉としか言えない。マジすげぇ…

元田久治さんという方の作品は東京タワーや東京駅といったランドマークをモチーフに荒廃した未来の都市を描くテイストのものだったのだけど、これら全てがリトグラフによって制作されていた。わたしも高校時代にリトグラフをやった経験を持つのだが、スケッチの要領で金属板に絵を描いて化学反応によって腐食させて金属板に凹凸をつけることで絵を刷り出す、みたいな版画の手法です。(うーん、なんかこの説明だと伝わりきらない気がするので興味がある方はこちらをご覧ください。)まぁとにかく膨大な作業量を経て完成された作品なのだろうことが容易に想像でき、こちらも〈マジすげぇ…〉と圧倒されるしかなかった。

 

展示されている作品は写真撮影OKのものも多かったのだが、あまりの衝撃に途中まで写真を撮ることすら忘れて見入ってしまったので、写真なしでこれらの作品の素晴らしさを伝えなくてはならず、非常にしんどい。とにかく見ていただきたいです。

とはいえこの『現代の写実ー映像を超えて』展はすでに終わってしまっている。あぁ残念だ。なんで写真を撮らなかったんだ、わたし!!!!!

 

 

展示も中盤を過ぎたあたりでようやく写真撮影OKなことに気付いて、何点か撮影することができた。

 

下記3点の写真は稲垣考二さんという方の作品で、これもとにかくバカでかかった。いくつものコマで構成された人物画は、それぞれのコマにも様々な描き込みがなされていて、見れば見るほど楽しめる!といったおもしろさがある。

 

東京都美術館

東京都美術館

 

 

東京都美術館の公式サイトには各作家の代表作が掲載されているので、一応リンクを貼っておきます。

www.tobikan.jp

 

この写実展を見たことで、わたし自身が芸術作品に触れる上で最も感動するポイントは何なのか、ということの一種の指針のようなものが明確になったのが大きな収穫です。どんなに巨匠と呼ばれる芸術家の作品を見ても、いまいち何が素晴らしいのか良く分からん…と思うことも多かったのだが、わたしが美術を勉強してきた過程は『いかに本物のように描くか』が素晴らしいとされている環境だったので、それを考えれば自ずと自分なりの芸術論みたいなものが浮かび上がってくるなぁ、ということを今回の美術展を通して整理することができた。例えば高校卒業以降も美術史やらの勉強をし続け、芸術分野への専門的な理解を深めていけば指針自体も大きく変わったかもしれないが、あいにく高校卒業とともに美術の勉強は写実性の追及からデザイン方面へシフトチェンジしてしまったので、わたしの中での素晴らしい作品の指針は写実性の高さが大部分を占めている。

だからこそ、人が何かを学ぶ過程に於いて最初に触れる『良し悪しの判断』というものは非常に大きな役割を担っているなぁ…と思ったりもした。例えばわたしが最初に美術を学ぶ環境が〈芸術は爆発だ!自由に描け!!!〉的なスタンスだったら、わたしの中の芸術論みたいなものも違ってきたかもしれない。

 

まぁこれはそれぞれの人間が持って生まれた資質も大きく作用するかもしれません。わたしは幾何学模様だったり直線的なデザインだったり、一定のルールや秩序がある画面構成を好む傾向にあるので、言葉で説明できないような矛盾した空間だったり作品だったりにはやや苦手意識を持ってしまいます。苦手というか落ち着かないというか。もしかしたら映画でも小説でも、SFやファンタジーものが苦手なのもそういった資質が関係しているのかもしれない。バランスが取れていない世界観や空間、画面といったものへの耐性が低いんだと思う。うーん、、、関係あるのかないのか。誰かそっち方面に詳しい人、教えてください。

 

 

おっといけない、話が大きく逸れてしまった。

そんなこんなで非常に実りある1日を過ごしました。

帰りに浅草の浅草寺に初詣にも行き、おみくじを引いたら「末吉」だった。まぁまぁ散々なことを書かれていたので念のため厄払いのお守りを買った。頼むよ、神様。

 

おわり。

ご覧いただき、ありがとうございました。

 

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